9月19日(火)

疲れがピークに達しているようだ。

昨日の夜もまた寝られなかった。暑さと睡眠不足でふらふらのままやっとのことで支度を終え、駅に向かう。あまりの暑さに身体が焼けるようだった。ふと、もう今日は誰とも話したくないな、と思う。

出勤し、朝メンバーたちに最低限の挨拶をして自分のブックトラッカーに向かう。検品を終えたトラッカーにはこんな日に限って山ほどの入荷商品が載せられていた。連休明けだから余計に多いのだろう。

マスクの下で盛大にため息をつく。果たして今日中に終わるのだろうか。出来ることならお客さんからの問い合わせも受けたくないな、と思ってしまった。

誰とも話したくない。
知らない人に声をかけられたくない。

こんな時頭をよぎるのは新入社員の頃の先輩、松下さん(仮名)のことだ。いつか、喫煙室でタバコをくゆらしながらあの人が言った言葉を思い出す。

『破滅くん、仕事は効率的に進めなマジでおわらんで。』

あれは最初の店に配属されて数ヶ月経った頃だっただろうか?当時俺は品出しがなかなか終わらず、残業ばかりしていた。

『丁寧に仕事を進めるのはええことやで。けど、全部それでいくと時間いくらあっても足らへん。抜くとこは抜かなあかんのや。』

『はい…どこを抜くんですか?』

『一番ええのは客からの問い合わせやな。もうな、あんなん無視したったらええねん。』

『え?無視ですか?』

予想外の返答に俺は言葉を失った。

『無視っつーと語弊あるけどな。さすがに‘すいません’言われたら無視出来へんよ?そんなんクレームになるやろ。だから、なるべく声をかけられへんようにするねん。客の少ないとこから品出しするとかな。で、誰か来おったらスッと他の売場へ行く。またそこでも誰か来たらスッ…ヒットアンドアウェイってやつや。』

『はあ…。』

『まあお前がどうしようが勝手やけど、そうでもせなマジで終わらんで。お前サービス残業ばっかりしてるやろ?どうせH店長は残業代なんかつけおらへんからな。そんなん時間勿体ないで。』

『はい…。』

2本目のタバコに火を点けると松下さんは言った。

『お前、メタルギアソリッドっていうゲーム知ってる?』

『はい、やったことはないですけど…なんか隠れるやつですよね?』

『そうや。あれと同じように考えたらええ。品出ししてるやろ?横目でチラッと見えるやん。いかにも声かけてきそうなジイさんとか。あんなんが見えた瞬間逃げろ。何にも気づいてない感じで、自然を装ってな。俺はこれを‘スネーク戦法’と呼んでいる。』

『え、でもなんかそのお客様に悪くないですか…?』

『だからそんなこと気にしてたら終わらんって言うてるねん。お前まだ入ったばっかりやからそんな風に思うんやろうけどな、どうせそのジジイも他の店員に声かけおるって。
ほんでまた聞いてくる内容もしょうもなかったりするやろ?NHKテキストはどこや?とかパズル誌はどこや?とか。しょうもないんじゃ!ちょっと自分で探せば分かるようなこと聞いてきやがって。気まぐれで聞いてきおるのが一番鬱陶しいねん。』

松下さんは忌々しそうにそう言うと、頭上に向けて煙を吐き出した。それが換気扇に吸い込まれていくのを眺めながら、俺は何が正しいのかよく分からなくなっていた。

『まあ色々言うたけど、スネーク戦法な。問い合わせからは逃げろ、や。分かったか?小島監督もあのゲームにそういうメッセージを込めたんや。』

『そんなわけないでしょう!』


注…書店員はお客様の問い合わせに真摯に対応する素晴らしい人たちばかりです。松下さんは頭がおかしいのです。

あれからもう何年たったのだろうか?松下さんはとっくの昔に書店員を辞めた。そして俺は、あの頃懐疑的だった‘スネーク戦法’を頻繁に実践している。

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